昨今、同人誌即売会やインターネット上の創作プラットフォームにおいて、生成AIの利用規制を巡る議論が絶えない。その多くは「著作権保護」や「クリエイターの倫理」、あるいは「AI推進派と反AI派の感情的対立」という文脈で語られがちである。
しかし、この問題をより冷徹に観察していくと、その本質は道徳や倫理の話ではなく、表現手法(職能)の違いによって生じる「コスト構造とインフラの非対称性」に帰結することが見えてくる。
本稿では、創作活動を「製造費・装飾費・広告費」という3つのコストに分解し、「定期券の目的外利用」というメタファーを用いることで、現在の創作市場で何が起きており、なぜクリエイター間に埋めがたい断絶が生まれているのかを構造的に解き明かす。
現代の飽和したコンテンツ市場において、作品が読者や視聴者に届くかどうかは、作品自体の質だけでなく、以下の3つのコストをいかに最適に配分するかにかかっている。
- 製造コスト:本文、楽曲、絵の本体など、中身を作り上げるための労働時間やスキル。
- 装飾コスト:表紙、挿絵、レイアウト、MVなど、作品の「店構え(見た目)」を整え、視覚的フックを作るための費用。
- 広告コスト:SNSでのインプレッション獲得やプラットフォーム上の宣伝など、露出を買うための費用。
このフレームワークでクリエイターを分類したとき、「イラストレーター(絵師)」は極めて特権的なポジションにいることがわかる。彼らは「製造(絵)」と「装飾(デザイン)」を自らの職能のみで完結でき、かつ完成した絵をSNSに投稿する行為自体が強力な「広告」として機能するため、ほぼゼロコスト(自身の労働時間のみ)で3つの要素をカバーできる。
対照的に、「小説家」や「音楽家」は構造的な弱点を抱えている。彼らは本文や楽曲(製造)を自力で作ることはできても、現代の視覚優位な市場において必須となる「装飾(表紙イラストやMV)」を自前で用意することが難しい。結果として、彼らは常に「外注必須の呪い」に縛られ、金銭的コストやコミュニケーションのリスクを背負うことになる。
AIの登場は、この外注必須の呪いに対する一種の「ハック(抜け道)」であった。AIを使えば、極めて低コストで表紙などの装飾を整えることができる。そして浮いた資金を広告費に回すことで、視覚的フックのない「文字だけの本」が長年置かれていた不遇な位置から脱却し、新たなマーケティング戦略を展開できる可能性が開かれたのである。
しかし、このAIによる装飾コストの削減は、絵師側からの強い反発を招くことになった。この対立の根源にあるのは、「AIというインフラに対する認識のズレ」、すなわち「家計簿における勘定科目の違い」である。
これを「定期券」と「切符」のメタファーで整理してみよう。
小説家にとって、AIのサブスクリプション(月額課金)は、日常的な執筆補助やアイデア出し、リサーチのために契約している「インフラ(固定費)」であり、いわば仕事用の「通勤定期券」である。休日にその定期券の範囲内で映画館へ行く(=AIを使って表紙を作る)ことは、すでに出費済みの固定費を活用する合理的な副次的利用(目的外利用)に過ぎない。
一方、絵師側からすれば、装飾(絵)とは自らの専門職能が取引されるべき市場である。そこへAIを使って無料で参入してくる行為は、本来なら目的地までの「切符代(外注費)」を別途支払うべきところを、用途の違う定期券でタダ乗り(フリーライド)している不正行為に映る。
「AIのサブスクを解約して、そのお金を貯めて年に1回イラストを外注してはどうか」という絵師側からのもっともな提案が、小説家側には全く響かない理由もここにある。小説家にとってAIサブスク代は日々の活動に不可欠な「交通費」であり、それを削ったところでプロに依頼できる外注費には到底届かない。
小説家が「ない袖は振れない」と嘆くのは、単なる貧困の訴えではない。「定期券と外注費は全く別の勘定項目であり、そもそも私の予算内に『切符代』という項目は存在しない」という、構造的かつ物理的な限界の表明なのである。
このような背景のもと、同人誌即売会「コミティア」をはじめとするいくつかのプラットフォームでは、AI生成物を表紙や挿絵に用いることを制限するルールが明確化され始めた。これにより、小説家が目論んだ「AIを用いた装丁によるマーケティング」は、本格化する前に封じられることとなった。
しかし、興味深いのはこのルールの「執行」の実態である。
物理的な即売会において、膨大な頒布物の中から「AI生成物か、人力による手描きか」を完璧に見分ける事前審査は事実上不可能である。実際に効力を発揮しているのは、明文化されたルールそのものというより、日本の同人コミュニティに深く根付いた「雰囲気」と、SNSにおける「私的制裁(監視と告発)」の力学である。
「AIを使っているのではないか」と疑念を持たれたとき、それを払拭できるのは「自分には人力でこれだけのものを描ける技術がある」という過去からの信用の蓄積(絵のうまさ)だけである。その証明能力を持たない小説家が、グレーゾーンの橋を渡ってAIで表紙を作ることは、コミュニティ内で「雰囲気を壊す者」として排斥される致命的なリスク(雰囲気維持費)を伴う。
結果として、厳格な監査システムがなくても、この「空気」と「リスク」の存在によって、実質的なAI利用の抑止力は極めて強力に機能している。
AIによる装飾というマーケティング手段を完全に絶たれた小説家たちは、どうなるのか。「不公平な市場から怒って退場していく」というドラマチックな排除の物語を想像しがちだが、現実ははるかに静かで淡々としている。
ここで視点を変え、コミティアなどの即売会を「公平性を競うスポーツ」ではなく、「独自の演出方針を持ったひとつの興行(イベント)」として捉え直す必要がある。
「純粋な人力によるオリジナル創作」というのは、その興行が独自に定めたブランド戦略であり、参加者に求める「ドレスコード」である。装飾をAIに頼ることが許される別の興行(実験的なAIフェスなど)もあれば、装飾の有無を問わない興行(文学フリマなど)もある。クリエイターは、自分の手持ちのカードに合わせて、どの興行に出演するかを選ぶことができる。
コミティアという興行において、人力の絵というドレスコード(外注費)を自前で用意できない小説家が選ぶ道は、「市場からの退場」ではない。彼らは、AI登場以前からずっとそうであったように、「視覚的フックを持たない、文字だけの本」として、いつもの場所に静かに留まり続けるだけである。
そこにあるのは「迫害された被害者」の姿ではない。AIという新しい道具を試そうとしたが、この興行のルールには合致しなかったため、再び従来のやり方に戻って黙々と創作を続けるという、極めて現実的で静謐な「日常の継続」があるのみである。
生成AIを巡る一連の騒動は、倫理や正義の戦いという外皮を被りながら、その実態は「勘定科目のすれ違い」と「興行のブランド戦略」が交差した結果生じた、経済的な摩擦に過ぎない。
絵師は自らの職能と市場を守るために人力というドレスコードを支持し、小説家はない袖を振れない現実を受け入れ、それぞれが計算可能なリスクとコストの範囲内で、自分に合った形で創作を続けていく。
「排除」や「分断」といった騒がしい言葉の裏側で、クリエイターたちは今日も冷徹にリソースを配分し、それぞれの場所で淡々と日常の営みを続けている。それこそが、AIという巨大な波が過ぎ去った後に残る、創作活動の最もリアルな風景である。